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『国連の友/日本プロ野球名球会 被災地支援活動』Vol.1

Photo_01   国連の友/日本プロ野球名球会ロゴ

国連の友は、被災地で暮らす仮設住民の「心のケアー」を目的とした支援活動”FOUN Sing for Smile Program”を、岩手県を皮切りに展開してきました。

カラオケを楽しむ、コミュニティの形成の場として活用してもらうことの他に、医師が帯同する心療医療の一環でもあることで、住民の皆さんには安心してご活用頂いております。

しかしながら被災地で暮らす住民の多くが65歳以上の高齢者であることや一人暮らしの高齢者が多いこと、またコミュニケーション不足の目立つ男性高齢者に対する更なる「心のケアー」の重要性を考慮したプログラムが必要とされていることから、あらたにこれまでの診療医療、セラピードッグ、カラオケカーに加えて、日本プロ野球名球会(王 貞治理事長)が本プログラムへご協力頂くこととなりました。

高齢者の方々が元気で活力にあふれていた時代を思い起こす助力が必要と考え、“昔”を思い出すことで“脳と心の活性化”を図る新たな支援プログラムとして、被災地域が野球の盛んな地域であること、また対象世代にとって“プロ野球”が最も身近なプロスポーツであることから、打診し、被災地の方との懇談を主目的として、プロ野球で偉業を達成した、野球ファンなら誰もが知っている会員の方(初回は、国連の友APモデレーターとして柴田勲副理事長)との現地同行が決定しました。

5月12日、日本プロ野球名球会と国連の友医療団は岩手県陸前高田市に入り、震災から1年数カ月が経過した被災地の状況視察をする為に沿岸エリアの旧市庁舎を訪れました。

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被災地を視察した後、カラオケカーが設置された岩手県大船渡市末崎町にある大田仮設住宅に向かいました。

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大田仮設住宅では、設置されたカラオケカーの前でオープニングセレモニーが行われ、高橋一年自治会長、名球会 柴田勲副理事長、他関係者より挨拶が行われました。

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セレモニー終了後、敷地内の集会所に場所を移し柴田副理事長より野球講話を行って頂きました。現役時代の話しの中で「この苦難の状況を王貞治さんの努力を惜しまない精神や長嶋茂雄さんの様なプラス思考をもって現状を乗り越えて欲しい」と仮設入居者の方々に励ましのエールを送って頂きました。

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引続き国連の友と名球会は、被災地共同支援活動を毎月行って参ります。

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『国連の友/日本プロ野球名球会 被災地支援活動』Vol.2

2012年6月10日、「心のケアー」を目的とした支援活動 ”FOUN Sing for Smile Program” に日本プロ野球名球会から今回は国連の友APモデレーターとして山田久志理事が岩手県陸前高田、大船渡市の被災地に入りました。

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先ず、甚大な被害を受けた陸前高田市に向かい戸羽太 陸前高田市長と共に旧市庁舎(市庁舎跡)等を視察しました。戸羽市長より震災から1年3カ月を経過しても、復興・復旧にはまだまだ時間と支援が必要であることの説明と子供達の「心のケアー」の必要性を訴えられました。

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更に戸羽市長より「陸前高田市だけでも、40数名の震災孤児がいます。多くは親戚等に引き取られていますが、新しい環境に大人も子供達も慣れたとはいえません。また他の被災した子供達は一見笑顔を取り戻したように見えても、その心に大きな傷を抱えています。子供達には”夢をあきらめないで欲しい”と願っていますが、精神的に支えるものが必要なのです。この陸前高田市を中心に岩手県は野球が盛んな地域です。そんな地域で、誰もが憧れ、誰もが応援した名球会の方々が直接お見えになり、子供達と交流を持ってもらえることは何よりの支えになりますし、大人達の心も高揚するはずです。」とのお話を頂きました。

山田理事からは「今回、被災地の現状を目の当たりにし名球会としても、もっと被災地に足を向けて現実を直視する重要性を再認識しました。名球会として可能な限りご協力させて頂きます」と話されました。

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次に大船渡市役所に向かい、大船渡市長を訪問致しました。

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戸田公明 大船渡市長からは、事業・土地活用の復興計画の説明等を受けました。更に「心のケアー」の重要性と必要性に関し、以下のお話を頂きました。

Photo_05 「3月11日に被災し、ガレキの山に阻まれ、ようやく避難所巡りが出来たのは14日でした。最初の1週間は水・食料・毛布等の物資に困窮しておりました。2〜3週間目はガソリンでした。4月上旬になると生活水準の向上と並び、「心のケアー」が大きな問題となりました。
しかし、「心のケアー」はモノと違い、人生をかけて癒していかなければならず、家族を失った哀しみ、辛さは一人で克服できるものではありません。現在市内39カ所の仮設には生活支援員を1名置き、毎日1回部屋をノックする活動を行っていますが、まだまだ充分ではありません。

大人も子供も被災者には”心トキメク”助けが必要です。
例えば、子供達はプロ野球選手に握手してもらうだけで未来に夢が持てる様になります。名球会の皆さまのご訪問は多くの子供達、大人達の心を躍らせるものであると確信しております。」

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戸田市長のお話を受け、山田理事からは「私は縁あって社会人野球を通じて釜石に3年お世話になりました。岩手の方々の忍耐強さ、優しさを充分に知っております。微力ながら名球会のメンバーとして、また一人の人間として尽力させてください。」と継続的な支援を約束されました。

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大船渡市役所を出発した後、現在カラオケカーの設置されている黒土田仮設住宅を訪れ、集会場に集まった仮設入居者の方々との交流会を開きました。

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山田理事は野球を通じて味わった挫折の歴史、人との出会いで齎された人生の転機の話等をユーモアを交えて話し、「現在もご不自由な生活をされている皆様ですが、この仮設での出会いが後々人生に大きな意味を齎すのではないかと思います」という言葉には、仮設集会場いっぱいの参加者から拍手が起こりました。最後に「私は人生の中で良い出会いを繰り返し、恵まれてきております。皆様との出会いもその一つです。皆様にお会いする為に必ずまた来ます」とメッセージを送られました。

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その後、大船渡市で唯一残された野球グラウンド(三陸総合運動公園)に隣接した綾里小学校に向かい、綾里はまっこスポーツ少年団と綾里中学校野球部の少年達にエールを送られました。

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また山田理事から、イチロー選手の例(道具を大切にすることは、仲間や周りの人を大切にすることにつながる等)のお話に、会場に集まった野球少年達は心ときめかせながら熱い視線を送っていました。

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引続き国連の友と名球会は、被災地共同支援活動を毎月行って参ります。

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『国連の友/日本プロ野球名球会 被災地支援活動』Vol.3

2012年8月5日、”FOUN Sing for Smile Program”の「心のケアー」支援活動に今回は名球会の松原誠さんが、国連の友APモデレーターとして岩手県陸前高田市、大船渡市の被災地に入りました。

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国連の友、名球会の一行は山越えの道を抜け、大船渡市街に入り大船渡市役所を訪問しました。

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陸前高田市市議会議員の伊藤議長から地区・地域ごとに土地利用や復興関連事業実施に向けた合意形成を図りながらも事業実施の見通しが立たない地域、まだ準備段階の他事業との統合問題の弊害により実施が鈍化している現在状況の説明を受けました。
「仮設で生活されている方は見通しのつかない将来に心が疲れきっています。その為「心のケアー」を行う環境をもっと増やす必要があります」とのお話しを頂きました。

次に訪れたのは東日本大震災で壊滅的な被害を受けた陸前高田市旧市役所庁舎でした。

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安全性の観点から6月に解体されましたが、外部からは「被害の実情を知ってもらう必要がある」として保存を求める声もあり、旧庁舎内部には流されてきたガレキ、書類等が震災当時のまま残されていました。

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次に沿岸沿いの高田松原第1球場付近に視察の為、立ち寄りました。

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津波によって球場全体が飲み込まれ、現在 復旧の目途も立たない状態ですが、球場が作られ、開幕試合(こけら落とし)が行われた試合では、大洋ホエールズ(現 横浜DeNAベイスターズ)時代の松原さんがチームを勝利に導いた想い出深い球場でもありました。

野球が全く出来ない状態のグランドを視察された松原さんは、被災地の皆様がまた笑顔で野球が出来る元の球場に戻って欲しい!と復旧を強く願う気持ちでその場に立たれていました。

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被災地を視察後、交流プログラムの場所となる旧広田水産高校グランド仮設住宅(岩手県陸前高田市広田町)を訪問。

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会場に集まった仮設入居者の方々は野球経験者の方が多く、松原さんに現役時代の活躍について多くの質問が出ました。松原さんは攻守に渡る数々のプレーはどの様にして成し遂げることが出来たか、その練習方法について実際に体を使って表現し、参加者の皆さんからは拍手がおこりました。

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交流会の最後には松原さんより「皆様を応援する為にまたこのプログラムに参加します。またお会いする事を楽しみにしていますので、皆さんも大変な生活が続きますが頑張って下さい」と激励の言葉をかけられました。

今後も引き続き国連の友と名球会では被災地共同支援活動を行って参ります。

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『国連の友/日本プロ野球名球会 被災地支援活動』Vol.4

2012年9月23日、「心のケアー」を目的とした支援活動 ”FOUN Sing for Smile Program” に今回、日本プロ野球名球会から国連の友APモデレーターとして山風T之さんに参加頂き、岩手県陸前高田市にある仮設住宅にて心のケアー活動を行いました。

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震災から1年6ヶ月が経過したにも関わらず、まだ瓦礫の処理が出来ていない場所もありましたが、その中に少しづつですが「仮設商店街」が立ち上がって活況を呈していました。

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陸前高田市仮市庁舎に入り、伊藤明彦議長より震災後の現状報告を受けました。
その中で「震災から1年6ヶ月が経過し、支援に来てい頂いた方々が段々と少なくなりました。
その為、被災者の多くは被災地の事を風化して、忘れられてしまう。それが一番怖い」と説明。

山浮ウんは「私達が出来る事は、少しでも被災地の方々に元気付ける為に励まし、勇気づける事しか無いのでは。 その為には何度も足を運ぶ事が必要だと考えております。」と話されました。

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伊藤議長に案内をうけ、陸前高田旧市庁舎に立ち寄りました。
伊藤議長は「この鉄筋構造の3階建(一部4階建)で、津波は市庁舎屋上にまで及び、多くの職員が命を落としました。この震災の恐ろしさを、本当の復興が訪れるその日まで私達は伝えていかなければなりません」と当時の状況と今後取り組むべき課題を説明されました。

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被災地を視察後、交流プログラムの場所となる高田高校第2グランド仮設住宅(岩手県陸前高田市高田町)を訪問。

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山浮ウんは現役時代、野球を通じて経験した貴重な時間は現在どの様に繋がっているのか、そこから得た教訓等を被災地で生活されている皆様に励ましの言葉として伝える為に今回、この交流プログラムに参加しました…と被災地訪問への強い思いを会場に集まった仮設入居者の方々に伝えました。

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交流会に参加された女性からは、震災から今日に至るまでの約一年半、様々な環境の変化を体験し、今もまだ先行きの見えない不安な毎日を送っていると話しがあると、山風lは「私自身、重い病気を患い精神的に辛い経験をしました。治療方法や気持ちの持ち方等を家族や周りの人に相談する事により、貴重なアドバイスをもらい、人は話す事で心の中に抱えている大きな不安感が軽減するのです。皆さんも被災によって先行きの見えない大きな不安を持たれていると思いますが、その事を信頼の出来る方や、どなたでも結構です。是非相談をされて下さい。きっと心が楽になります」と会場に集まった方々に話し、桧田医師からも「医学的にも不安を抱えている問題を人に話す事は心のケアーに効果がある」と説明補足をされました。

今回の交流会(心のケアー活動)には、仮設住宅で暮らす大勢の方々が集まりプログラムが終了しました。

今後も引き続き国連の友と名球会では被災地共同支援活動を行って参ります。

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『国連の友/日本プロ野球名球会 被災地支援活動』Vol.5

2012年11月30日、”FOUN Sing for Smile Program”の支援活動では8月に行われた岩手県大船渡市での「心のケアー」活動に引き続き、国連の友APモデレーターとして名球会の松原誠さんが岩手県陸前高田市の被災地に入りました。

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壊滅的な打撃を受けた陸前高田旧市庁舎に立ち寄り献花を行いました。

旧市庁舎では陸前高田市市議会議員の千田副議長より「津波被害によって亡くなられた方々を偲んで献花を行って頂くことは、震災の悲しみを決して忘れてはいけない思いと前進していかなければならない強い気持ちを持たせてくれます」と献花台を前に話されました。

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旧市庁舎を出発し陸前高田市仮市庁舎内、市長室を訪問しました。戸羽市長に国連の友が被災地で行っている継続的プログラムの他、国連本部での報告会などを説明。

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戸羽太市長からは以下のコメントを頂きました。

Photo_04  「国連の友には、震災直後より持続的な活動を行って頂いております。
特に厳しい現実と向き合う仮設住宅居住者の市民に対する「心のケアー」活動は特筆すべきものであり、改めて陸前高田市を代表し御礼申し上げます。

 先般、超新星並びに所属事務所にご招待頂きました「韓国旅行」では42名の市民が参加され、震災後初めての旅行をさせて頂き、一歩前に踏み出すきっかけを当市民に与えて頂きました。

また毎月仮設住宅で行われている日本プロ野球名球会様の活動は、被災者の心を励ます活動として評価されています。大人だけではなく、子供たちにとっても日本中を興奮させた名プレイヤーからの言葉には勇気をもらっています。

 当市では29名の子供たちが両親を亡くし、150名を超える子供たちも両親のどちらかを亡くしております。復興・復旧・未来の形成には子供たちの「元気な心」が必要で、それには一過性の支援ではなく長い時間を要する支援が必要です。
その為にも「被災地を忘れないで欲しい」と切に願っております。

 人はだれかに見てもらわないと生きていけないものです。
「よく頑張ったね」等とほめてもらう事、気にかけてもらうことで生きる勇気が湧いてきます。
忘れられたら頑張りがききません。
被災地にはまだ本当のクリスマスもお正月もありません…
しかし日本中の皆さんが応援してくれている、と思うと明日に向かえます。

そうした意味においても持続性と発信力のある国連の友の「心のケアー」活動はまさに被災地が望んでいる活動なのです。


最後に戸羽市長より、現在も継続している毎月の名球会との活動に対し、今後も引き続きの支援要請を受けました。

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10月に岩手県陸前高田市、大船渡市の仮設住宅で暮らす方々82名を渡航費、滞在費を含めた全費用を事務所負担とし韓国へ招待して頂いた Maroo Co.,LTD (超新星所属オフィス)に対し、陸前高田、大船渡市を代表し、陸前高田市市議会議員 千田副議長より御礼と感謝の品を贈呈されました。

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陸前高田市仮市庁舎を出発し、交流プログラムの場所となる滝の里工業団地仮設住宅(岩手県陸前高田市竹駒町)を訪問。

交流会には松原さんの話しを聞こうと多くの仮設入居者の方々が集まり、交流会の中で松原さんより以下のコメントを頂きました。

Photo_07 「今日は考え方を変えることで生き方を変えるお話をしたいと思います。 私の経験は皆様がご経験した事に比べると大した事ではありませんが、この思い出の地(※)である陸前高田の皆さんのお役にたてればと思いお話し致します。

どんなスポーツ選手も経験することですが、私もスランプに陥ってバッターボックスに入る事が怖くなりました。打てなかった一打席の失敗に取りつかれて心のバランスを亡くし、頭ではわかっていても心が失敗を受け止めることが出来なかったのですね。結局は完璧を求めすぎたのでしょう。

そんな或る日、ある方から”3打席1安打で年間3割3分3厘の最高のバッターになれる!” ”4打席ノーヒットでも、今日一日怪我なく過ごせた!”という考えを持てれば心が救われる…というお話を頂きました。不思議なことにそれからは失敗も自然と受け止められることが出来ました。

私は打者として現役時代2095本の安打を打つ事が出来ましたが、結局首位打者になることはできませんでした。私の前にはいつも王さんが大きな壁となって立ちはだかっていたからです。

ある時、王さんから貴重な話を聞く事ができ、初めて打率の1厘差の深さを知る事ができました。
 ”大学を出たサラリーマンの働く平均年数は35年〜38年。
 プロ野球の現役平均寿命は12年程でサラリーマンの1/3の寿命しかないことになる。
 それなら1日を3倍に生きようと思った。”
その考えをもち、明確な目標を立て、王さんは人の3倍の練習をしたのです。

しかし私にはそうした明確な努力目標がありませんでした。
これが1厘の差を生んだ要因だと知ったのは現役を引退した後です。

選手は”技術”に素直になり、良いと思う事に貪欲になる事が必要です。
そしてコーチは「こいつを絶対に一流に育てる」…という”情熱”が必要です。

辛いご経験をなさった皆様に贈るには無力な言葉かも知れませんが、私のつたない経験が少しでも励みになればと、このお話しをさせて頂きました」


※(松原さんは陸前高田松原球場のこけら落としの試合で、大洋ホエールズの選手としてグランドに立ち、勝利をおさめられました。現在は瓦礫で埋もれ、球場としての機能がなされていません。)

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会場の皆さんは考え方を変えれば、現状の捉え方も変わり、苦しい生活も乗り越えられる気持ちになる!と耳を傾け、真剣に話しを聞かれていました。

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松原さんは最後に「日本プロ野球名球会は今後も皆さんとの交流を続けて参ります。また是非お会いしましょう。」と激励の言葉と活動を継続していく思いを言葉で伝えられました。

引続き国連の友と名球会は、被災地共同支援活動を毎月行って参ります。

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『国連の友/日本プロ野球名球会 被災地支援活動』Vol.6

12月21日、本格的な冬の厳しさの訪れた被災地、岩手県にて「心のケアー」を目的とした支援活動 ”FOUN Sing for Smile Program” を実施、今回は日本プロ野球名球会から平松政次さんに国連の友APモデレーターとしてご参加頂き、岩手県陸前高田市にある仮設住宅にて心のケア活動を行いました。

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陸前高田市市長の表敬訪問を前に、壊滅的な打撃を受けた陸前高田旧市庁舎に立ち寄りました。陸前高田市 千田副議長より震災直後の地震、津波の状況の説明。その詳細を聞き、平松さんは「支援の為に多くの方が来て頂いたと思います。しかし、この何も変わっていっていない現状を私達がたくさんの方々に伝えていかなければいけないのでしょう。」と話されました。

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次に向かった陸前高田市役所では国連の友から現在迄の支援活動の報告を行いました。陸前高田市 戸羽市長からは現在の復興状況と今後の課題の説明を受けました。
また戸羽市長より、「プロ野球名球会の皆さんが毎月訪れて頂く活動にはとても感謝致しております。それは被災者にとって大きな励みとなり、希望をもって生きていく事にも繋がっていると思います。そして被災地の事を忘れずにいてもらう事が何よりの支援となっています。」と語って頂きました。

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その後、カラオケカーの設置されている陸前高田市 モビリア仮設住宅に移動し、集会場にて交流会が開催されました。 会場では沢山の質問を頂いたり和やかな交流会となりました。

平松さんからは以下のコメントを頂きました。

Photo_04  本日、この仮設住宅に来る前に、陸前高田市市街地を視察して参りました。
多くの方がお話しされるようにテレビ等の報道では感じられない災害の大きさに触れ、皆様の御苦労がいかに大変なものであるかと痛感致しました。

 私の野球を通じた経験談が、あれだけの災害を経験された皆様の心に触れることが出来るかどうか分かりませんが、微力ながらお手伝いさせて頂きたいとと思い本日やって参りました。

 今日は「夢を追いかけることの大切さ」と「人の出会いの大切さ」についてお話しさせて頂きます。

 私は岡山で生まれ、育ちました。中学でも野球をやっていたのですが、投手としてはノーコンピッチャーで野球の名門校には全く注目されていない選手でした。

 ところが、岡山東の監督が私の才能を信じ、学校を説得してくれて岡山東に入ることが出来ました。練習は厳しく新入生で入った200人の部員のうち残った部員は9人だけになりました。
私も毎日毎日700球もの球を投げ込みました。

そんな厳しい毎日を乗り超えるために、”この辛さは一生に一度しかない!”と自分を励まし、自分のために奔走してくれた監督や部長の期待を裏切りたくない…という思いでした。
「人の出会い」が私に勇気をくれました。

昭和40年、春の選抜甲子園大会で優勝した私はドラフトで中日ドラゴンズに指名されました。
交渉の中で想像もしないような、多分一生かかっても稼げないような好条件を提示されましたが、私はその条件を断りました。
理由は私には憧れ続けたチームのユニフォームを着る夢があったからです。
私はその夢を追いかけるために社会人野球への道を選択しました。

憧れていた球団には入団しませんでしたが、もしもあの条件で入団していたら、私はろくに練習もせず遊び回って野球選手としては大成しなかったと思います。
「夢を追い続けた」からこそ、お金で買えない経験ができ、大勢の人の支えで野球の世界で成績を残せたのだと思います。

僕の代名詞として「カミソリシュートの平松」と言われます。 実はあのシュートは苦労を重ねてできたものではありません。入団した当初は勝てない時期が続いていました。
ある時、先輩から「他の球を投げれないのか…」と言われ、学生時代に監督から教わった”シュート”を 思い出しそれを投げたら先輩達から「これはすごい!これで勝負しろ」と言われたのです。
学生時代に聞いた事を頭の片隅に残していなければ「カミソリシュート」は生まれませんでした。

人の話を残し思い出す事は人を成長させるのだと思います。これは野球人生だけでなく、すべての人生に共通する教訓だと思います。 人生の教科書は自分の足跡であるのだとつくづく感じるのです。

この度の震災で皆さんは多くの大切な人、ものを亡くされたと思います。
その悲しく、辛い記憶と経験は2年や3年で癒されるものではないでしょう…。

私ども日本プロ野球名球会は今後も皆さんの「心のケアー」のお手伝いをさせて頂きます。
一緒に、一つずつ足跡を残していきましょう…。 本日は有難うございました。


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『国連の友/日本プロ野球名球会 被災地支援活動』Vol.7

1月18日、東北地方を襲った寒波の影響で、被災地陸前高田市、大船渡市は最高気温マイナス1℃という厳しい中、「心のケアー」を目的とした支援活動 ”FOUN Sing for Smile Program” に今回、日本プロ野球名球会から、国連の友APモデレーターとして北別府学さんにご参加頂き、岩手県大船渡市にある仮設住宅にて心のケア活動を行いました。

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大船渡市長の表敬訪問を前に、壊滅的な打撃を受けた陸前高田旧市庁舎に立ち寄り、国連の友 現地スタッフより地震、津波の状況の説明を受けた北別府さんは、「やはり現場に来ないとわからないことが多いです。間もなく震災より2年を迎えますが、被災地は今も辛く厳しい状況におかれていることをまざまざと知りました。」と未だ災害の爪痕が癒えない被災現場を眺めながら何度も「この状況を伝え続けなければいけない…」と話されていました。

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次に向かった大船渡市役所では現在の復興状況と今後の課題の説明を受けました。

戸田大船渡市長より、「プロ野球名球会の皆さんが毎月訪れて頂くことは被災者にとって大変な励みになります。どうか、被災地の事を忘れられないように今後もご協力ください。」とのお話を受け、
北別府さんからは「市の職員の皆様も日々大変なご苦労をなさっていられると思います。 ここに伺う前に被災現場を視察し思った以上に厳しい現実を知り、日本プロ野球名球会もできる支援を今後も続けたいと思います。」と語って頂きました。

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その後、市内上平仮設住宅に移動し、集会場にて交流会が開催されました。歓迎の花束を頂いたり、沢山の質問を頂いたり和やかな交流会となりました。

北別府さんからは以下のコメントを頂きました。

Photo_04  本日「上平仮設住宅」に来る前に、被災現場を数箇所廻って参りました。
間もなくあの災害から2年を迎えますが、皆さんのご苦労が身にしみて分る状況に言葉もありません。
やはり現地に来ないと見えないことが沢山あります。

 そんな皆さんを前に私の話がお役に立つかどうか分りませんが、私の野球人生を通じて感じた事をお話させて頂きます。

 多くの方々に支えられ、昨年 野球殿堂入りをさせて頂きました。213勝を挙げてプロ野球名球会にも入ることが出来ました。

1975年、ドラフト1位で広島に入りましたが、正直無名の選手で、高校卒業後の1ヶ月間はホームシックでした。 その原因はプロの世界のレベルの高さを見せ付けられ、『自分には未来も味方もいないんじゃないか!』と思っていたんです。
当時、『あんなわけわからんヤツをとってきて大丈夫なのか…』と多くの人が思っていたそうです。

しかし、1位指名を推してくれたスカウトが毎日毎日、叱咤激励にきてくれました。 私は『何とか3年間やってみよう。ダメなら田舎に帰ろう』と心に決めてがむしゃらに3年間努力しました。
その甲斐もあって、3年目に10勝を上げ『あ、これで俺は野球で飯が食っていける』と、はじめて思うことが出来たのです。

その自信が翌シーズンの17勝につながった一つの要因と思いますが、それ以外にも相手バッターの癖が 分かってきたことが大きかったと思います。三振を取ることに快感を覚えるピッチャーも大勢いるんですが、 私の場合は、相手の読みを完璧にひっくり返したときに喜びが増しました。
自分の特性を見つけ、活かすことで野球界を生き延びることが出来たと思います。

現役を引退しコーチになった時、「何でこんなことが出来ないんだろう…」と選手を指導しながら思ったものです。
このコーチとしての経験は「人間としての成長」に繋がりました。
相手の視線に自分が立つこと、全ての人が同じ事を出来るわけではないんだという当たり前の事を学びました。

一番不安だったのは解説者になった時でした。
当時、テレビ中継では一試合に3〜4名の解説者が実況の説明をしていたので、馴れない私は当初全く喋れませんでした。
話すために再度、野球を研究しました。そうすると野球の辛さも楽しさも分ってきたのです。

様々な経験を重ね、今あるのは野球への感謝です。
野球をやってきたからこそ、こうして皆さんにもお会い出来るし、全国の野球少年たちにも会えます。
最近ではテレビドラマのオープニングにも私の名前が印象的に使われました。
野球が新たな人との出会いと人生の学びを与えてくれました。
あの3年間の我慢がなければ今の私はなかったと思います。

皆さんの我慢は、私の我慢と比べられるものではありませんが、この辛い経験はきっと報われると信じて お互いに頑張って生きていきましょう。

今日は有難うございました。また必ず皆様の笑顔を見に戻って参ります。


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引続き国連の友と名球会は、被災地共同支援活動を毎月行って参ります。

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『国連の友/日本プロ野球名球会 被災地支援活動』Vol.8

2月15日、日本プロ野球名球会と国連の友医療団との活動は雪がちらつく中、大船渡市沢川仮設で行われました。

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陸前高田市の献花台を訪れた際、駒田さん(国連の友APモデレーター)は辺り一面を見渡し
「現役時代、何度かこの町を訪れていますが、全ての景色が変わってしまいました。
僕自身、この現状をどう受け止めて良いのか…。
月並みですがやはり "言葉にできない…" というのが本音です。」
と記憶と変わってしまった町の様相に愕然としていました。

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続いて大船渡市役所を訪れ、戸田市長、三浦議会事務局長から被災状況、現状の説明を受け、再度、あの震災を振り返りました。

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戸田市長から
「市民は毎月、名球会の著名な選手が小さな仮設まで直接出向かれ、野球談義に花を咲かせることを楽しみにしております。
間もなく震災から2年を迎えます。町の復興は様々な問題を克服しながら、青写真を描き実行に取り掛かっていますが、被災者の心の復興には青写真などありません…。
今、私たちが切に願うことは、"被災地を見つめ続けて頂きたい"との思いです。
毎月訪れて頂き、励まし続けて頂くことは皆様の予想以上に被災地を励ます尊い活動と感謝しております。」とのお話を受け、

駒田さんからは
「僕たちが出来ることは大きな仕事では有りませんが、これからも被災地を思い、一人でも多くの人たちに今日の経験を伝えて行きたいと思います…」と話されていました。

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その後、50世帯が暮らす沢川仮設に向かいました。

集会場には幼稚園児から仮設暮らしの年配者までがお集まり頂き、駒田さんは一人一人に語りかけるように以下のようなお話をなさいました。

Photo_05  「新幹線の中で、今日は野球の話をしようと頭の中で話す内容を整理していましたが被災地の現状を目の当たりにした瞬間、考えを変えました。

こちらの球場には何度か試合でお邪魔させて頂き、その時の思い出が蘇りましたが、それが… 無くなってしまったことを目の当たりにすると"この震災は現実なんだ…"と実感させられます。
しかし、球場は無くなりましたが思い出は残っています。その事は大切にしていかなければならないでしょう。

 そんな大変な状況で生活されている皆さんに、どんな言葉にしても現在のご苦労を励ます言葉にならないかもしれない…。

 それならば、短い時間ですが私自身の話しを聞いてもらいながら皆さんが笑い、一緒に過ごす楽しい時間になればと思っております。

だから今日は野球の話を目的にせず、皆さんと一緒に時間と思い出を共有することを目的にしたいと思います。

僕は今野球の解説以外にラジオ番組のパーソナリティーをやっています。それも全く畑違いの音楽番組です。こういうお仕事を頂けるのも野球のお陰だと思いますし、また野手であったことが幸いしているのだと思います。

プロ野球のフィールドには二つの世界があります。
投手の仕事は、まさにスポーツです。しかしながら野手はエンターテイメントの分野が重要で、お客さんを楽しませることもプレイ以外で必要となります。
そうした経験や子供時代から培った冒険心、度胸のよさが全く違う分野でも仕事ができる礎になったのではないかと感じています。

ラジオ番組にはリスナーの方々から思い出の音楽に沿って人生の節目となった出来事などが添えられてきます。辛かったこと、嬉しかったこと…
もちろん私はそうしたリスナーの方々とお会いしたこともなく、育った時代も環境も違うのですが、なぜか音楽を聴きながら、コメントを読みながら"時間と場所"を共有しているのです。

今日、私が皆さんとお会いしお話を交えることで私は皆さんと共有する何かを見つけて行きたいと思っています"」

と話して下さいました。

交流会の最後は笑い声が集会場に響き渡り、気軽にサインや記念写真撮影に応じた駒田さんは「私ども名球会は、皆さんを少しでも笑顔に変える事の出来る活動を続けていきたい気持ちでいます。これからも情熱をもって応援していきます!」と力強く、支援を約束してくださいました。

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引続き国連の友と名球会は、被災地共同支援活動を毎月行って参ります。

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『国連の友/日本プロ野球名球会 被災地支援活動』Vol.9

3月28日、プロ野球歴代1位の949試合に登板、歴代2位の通算350勝を記録し、その驚異的スタミナから「ガソリンタンク」「人間機関車」などと呼ばれた日本プロ野球名球会会員”米田哲也さん”が国連の友APモデレーターとして、被災地、大船渡市と陸前高田市を視察し、大船渡市の「蛸ノ浦地区公民館」において地元の野球少年やその指導者、保護者達との交流会を開催しました。

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交流会に先立ち、陸前高田市の追悼施設に献花し、震災当時の状況を説明された米田さんは、それまで雄弁に語っていた姿とは一転し、遠くに照明塔のみが残る市営球場を見つめながら一人で歩き始めました。

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その後、大船渡市役所へ戸田市長を訪問した米田さんは静かな口調で語り始めました。

Photo_03  「私は1995年1月17日の阪神淡路大震災を経験しました。早朝に、今まで経験したことのない揺れを感じ、”恐怖という感情を初めて抱きました。

全国の皆さんのご支援で災害からの復興を成し遂げましたが、今日初めて東北の被災地を見せて頂き今度は私たちが長く支援していかなければならないと痛切に感じました。」



Photo_04 これに対し戸田市長からは
 「仮設住宅が建っているのは公園や学校の校庭などで、子供たちが思い切り遊んだりスポーツをすることができていません…。中学や高校では生徒は一度も校庭を使えず卒業する子供たちもいるでしょう。
一見子供たちは元気で健康そうに見えますが、テレビなどで津波のシーンが流されたりすると鬱の状態になる子供たちがたくさんいます。反対に過度に躁の状態になる子供たちもいます。
ちょっとしたきっかけでPTSDの症状が出るのです。
そんな子供たちに、米田さんのような大投手が語り掛け、生きる希望を与えてくれることが何よりものケアになると思います。これからも引き続き被災地を見守り続けてください。」
と話されました。

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その後、被害の大きかった赤崎地区の「蛸ノ浦地区公民館」に移動しました。そこには小学校、中学校の生徒で構成される少年野球チーム「蛸ノ浦スポーツ少年団」の生徒30名ほどと保護者、指導者の皆様が大きな拍手で米田さんを迎えてくださり、交流会は始まりました。

米田さんからは野球を通じて得た「心の在り方」のお話を頂きました。それは…

1)努力したらチャンスは必ず来る。君たちが努力している姿を必ずコーチや監督は見ている。
2)ライバルに勝つという強い気持ちをもつ事。
3)絶対自分には出来る!と信じる事。
4)いつも考えながら遊ぶ、行動する癖をつける事。


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そして最後に

「僕が君たちの年ごろには今のように道具が豊富になかった。僕は最初キャッチャーをやっていたけれど、キャッチャーミットなど無く、母親が使っていた鍋つかみを改良して使っていた。君たちは今回の震災に遭い辛い経験もしただろうけれど、それでも今君たちは野球の道具に囲まれている。だから道具を大事にしなさい。そこから感謝の心が生まれてくるはずです。
そして保護者の皆さんには野球だけではなく、様々なスポーツをすることをお勧めします。僕は高校から野球を始めました。それまで卓球や陸上競技をしました。特に陸上の練習では砂浜を走り、足腰が強くなりました。全ての努力は無駄ではなく、いつか形は変わっても報われます。」


と時に厳しく、時に温かい眼差しを子供たちに向けて話されました。

大きな声で別れの挨拶をする野球少年たちと固い握手を交わし肩をポンポンと叩く米田さんに「350勝投手の威厳と被災地の子供たちを案ずる”過去の被災者”の思いやり」を垣間見た一日でした。

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『国連の友/日本プロ野球名球会 被災地支援活動』Vol.10

国連の友APモデレーターとして、今回で2度目の参加となる北別府さん(今年1月に大船渡市の仮設住宅を訪問)は陸前高田市内の追悼施設にある「献花台」にて献花を行い、震災当日の状況や現在の復旧状態を確認しました。

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次に陸前高田市役所を訪れ、国連の友から現在迄の支援活動の報告後、陸前高田市 戸羽市長からは現在の復興状況と今後の課題の説明を受けました。

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陸前高田市仮市庁舎を出発し、交流プログラムの場所となる滝の里工業団地仮設住宅集会場(岩手県陸前高田市竹駒町)を訪問しました。

交流会には北別府さんの話しを聞こうと多くの仮設入居者の方々が集まり、交流会の中で北別府さんより以下のコメントを頂きました。

Photo_03 『前回、1月18日に参加させてもらい、少しずつではありますが工事が進んでいる等、復興に向かっていると感じました。
一日も早い町の復活を望むことくらいしか僕達には出来ませんが、今後も引き続き協力させて頂ければと思います。

1月の訪問では大船渡市の上平仮設住宅にお邪魔させて頂きました。
皆さんにお会いする前は
「自分がもしもこんな状況に置かれたらどうなるのだろう…!?
皆さんにどんな言葉をかけたら良いんだろう…!?」と随分悩みました。
しかしながら、今回も被災地の皆さんに逆に励まされるばかりです。

自分事ですが、今年3月に娘が嫁ぎ、4月には息子が大学入学の為に広島を離れ東京に旅立ちました。
現役時代から遠征続きで家族と過ごす時間は限られていましたが、ここ数年は広島での仕事が中心でようやく家族とゆっくり過ごせると思っていたら、子供達は巣立ちの時を迎えていました。
息子を見送った日、妻と二人だけになった家を見渡しながら初めて寂しさと家族の大切さをしみじみ感じました。



Photo_04  皆さんの多くはご家族、ご親戚、ご友人を亡くされ、その寂しさは私のものとは比較にならないと思います。でもその辛さや痛みを経験したことで広い視野で物事を捉えられ、人生の深さも身を持って感じたことと思います。

「人の立場に立って相手を思いやる」とは言葉では簡単ですが、心を持って接することは難しいことです。皆さんが日々その心を持って暮されていることを日本中の方々が知っています。
私達は日々皆さんからそれを学んでいます…。
皆さんを忘れることは決してありません。
また来ますから、待っていて下さい。
今日も皆さんから学んだこと、励まされたことを、息子にも伝えたいと思います。』


北別府さんは、ゆっくりとした口調で優しい眼差しを向けながら話されました。

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『国連の友/日本プロ野球名球会 被災地支援活動』Vol.11

国連の友APモデレーターとして、被災地の視察に訪れた鈴木さんは、陸前高田市内の追悼施設にある「献花台」にて献花を行い、震災当日の状況や現在の復旧状態を説明された後、大船渡市役所を訪れ大船渡市 金野副市長とお会いしました。

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金野副市長からは、大船渡市では現在も2,500名が仮設住宅で暮らされており、不自由な生活は日々の生活を圧迫し、また大人だけではなく子供達も学校のグラウンドが使えない等、子供達の心の問題にも気を配っていかなければならない状況が続いていることからも、長期化する避難生活に伴うストレス等に対応する“心のケアの重要性”を再度訴えられ、名球会会員が仮設住民と直接触れ合い、言葉を交わし、時間を共有する事の大切さと住民の感謝を伝えて頂きました。

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大船渡市役所を出発し、交流プログラムの場所となる鳥沢仮設住宅集会所(岩手県陸前高田市竹駒町)を訪問しました。

集会場には住民の方々や、鈴木さんの来訪を聞きつけた他の仮設の方々もお集まりになり、鈴木さんの印象に残る試合や、今年のプロ野球注目選手の動向など様々な質問が寄せられました。

鈴木さんはプロ入り後のエピソード等を交え、困難な生活を送り続けている被災者に以下の話をされました。

Photo_03 『人生は思いもよらない奇跡や困難に満ちています。また逆境が幸運な結果に繋がる事もあると、自分の野球人生を振り返って感じる事が多々あります。

近鉄バファローズ(現:オリックスバファローズ)でなければもっと勝ち星がついたのでは…といわれることもありますが、近鉄だからこそ僕は活躍できたのだと思います。正直言って近鉄は好きな球団ではありませんでした。3〜4年過ぎると段々好きになってきたのです。

10年も過ぎるとその感情は愛情になり、20年経つと感謝に変わりました。
僕は560被本塁打という世界記録を持っています。「悔しい記録」ではありますが、決して逃げた投球をしなかったという「誇りの記録」でもあります。
常勝球団であれば、チームの勝ちを優先し、自分の勝負に撤する事は許されなかったと思いますが、万年最下位だった近鉄だったからこそ、僕は自分の哲学を貫き、勝負の時間を貰えたのだと思います。
日生球場という狭い球場でノーヒット・ノーランを2回達成できたのも、狭い球場という短所を活かし、コントロールを磨く事が出来たのだと感謝しています。

自分の人生を振り返ると時にマイナスと思われる事がプラスに作用する事もあるのだと…
良い事も悪い事も奇跡のような時間になることを知りました。

現役を引退し、年も取ってきましたが、僕は年という数字に捉われることなく、今が旬という気持ちを大切にしています。

皆さんも大変ご苦労な毎日を送られていらっしゃると思いますが、お互いに今が「旬」と考え、この困難を乗り越えて行きましょう』


と被災者の皆さんを励して頂きました。

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国連の友APモデレーターとして、被災地の視察に訪れた門田さんは、陸前高田市内の追悼施設にある「献花台」にて献花を行い、震災当日の状況や現在の復旧状態を説明された後、陸前高田市の仮設市役所を表敬訪問しました。
陸前高田市議会 伊藤議長とお会いし、伊藤議長からは陸前高田市では約5,000名が現在も不自由な仮設住宅での生活を与儀なくされている現状の説明をして頂き、名球会会員の仮設住民との直接の交流が、特に高齢者の方々に夢を与えて頂いている事への感謝を伝えて頂きました。

門田さんは、陸前高田市の復興の現状を目の当たりにし『最新技術大国の日本において、復興がこれ程遅れているかを本日初めて実感し、正直涙が出ました。
この状況をもっと報道すべきであり、その為なら微力ながらご協力致します』と話されました。

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陸前高田仮設市役所を出発し、交流プログラムの場所となる米崎小学校仮設住宅集会所(岩手県陸前高田市米崎町字神田113)を訪問しました。

集会場には住民の方々や、門田さんの来訪を聞きつけた仮設の方々がお集まりになり、門田さんの現役時代、特に歴代3位のホームランバッターの輝かしい選手時代のエピソードを交え、被災者の方々と交流を行いました。

また、交流会終了後には、仮設住宅にも訪れ、仮設での生活の現状を視察頂きました。

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photo_08 門田さんは困難な生活を送り続けている被災者の皆さんに以下の話をされました。

『私は、身長が170cmですので、野球界ではチビになります。
体格の違いをカバーする為に、通常よりは長いバットを使い、重さも1kgありました。
1kgのバットをまともに振れる様になるのに7年もかかりました。

photo_09 昔の選手は皆、我流です。
しかし、我流なのでスランプにも落ちる事が少ないのです。車でも、自分でタイヤや部品を組み立てた場合、調子が悪くなればどこが悪くなったのか分かります。
他人が作った自動車では、調子が悪くなった時に、どこが悪いのかも分かりません。
自分のスタイルを築けば、調子が悪くなれば、自分で調整し、体の改善もし易いです。』

最後に門田さんから
『私は、現役時代、右肩の骨折、アキレス腱挫傷に始まり、引退後は、糖尿病、脳梗塞、右耳の難聴等、怪我や病気ばかりでした。
こんな私も頑張っていますので、皆さんも頑張って下さい。』
とのお言葉で交流会を終え、門田さんの自分の経験を元にしたお話に、被災者の方々からは、時には笑いと感動が起こり、終始リラックスした表情を浮かべていました。

 



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8月30日、日本プロ野球名球会から柴田勲副理事長(国連の友APモデレーター)が参加してもらい岩手県の被災地を訪れました。柴田さんは昨年の5月にも国連の友医療団と被災地に入り今回2度目の活動参加となります。

柴田さんは、被災地を視察した際『昨年の被災地訪問から1年以上経過した現在に至っても、沿岸部には被災の爪痕がそのまま深く残っている。復興にはまだまだ時間がかかるという現実を突き付けられました。』と話さました。

被災地での献花式を終え大船渡市役所を表敬訪問の際、国連の友から現在迄の支援活動報告を行いました。

大船渡市 戸田市長からは、現在の復興状況と今後の課題の説明に続きSing for Smileプログラム活動に対し御礼の言葉を頂きました。

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市役所を出発し交流会場(カラオケカー設置場所)である大船渡市にある永沢仮設設住宅の敷地内の集会所に到着しました。

柴田さんは交流会の中で、下記のお話をして頂きました。

photo_05皆さんもご存知の王貞治さんは、非常に努力家の人です。
王さんはその当時、真夏の多摩川の巨人軍練習場で猛練習をした後、後楽園(現東京ドーム)で試合を行っていました。私はある時、その様なハードな練習を重ねていては体を壊してしまうのではと心配し、そのことを尋ねたことがありました。すると『私は一本足打法と言う特殊な打ち方をしているので、いつタイミングが狂い、スランプに陥るか分からない。スランプにならない為に、毎日当たり前の努力をしているだけだ。』と言われ、スランプにならないのが、スランプからの脱出方法だと強く感じ、またプロとしての意識の高さに感銘を受けたのを覚えています。

また、私が新人の頃、王さんに『ホームランの目標数は何本ですか?』と尋ねた時がありました。

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すると事もなげに『1,000本』と言ったことに非常に驚きました。
その当時、王さんのホームラン記録はまだ100本の時だったからです。 更に『今はまだ100本だが、残りの現役生活を18年とした場合、年間50本ずつホームランを打てば、1,000本になる。』と言っていたのが印象的でした。実際には、868本と言う大記録となりましたが、仮に王さんが1,000本と言う目標を持っていなければ、ここまでの記録を作ることが出来なかったかも知れません。
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長嶋茂雄さんもまた、いつも自分が成功するイメージを持って試合をしていました。どの様にボールを取って、どの様にそのボールを一塁に送球すれば、試合を見に来てくれているお客さんが喜んでくれるかを何時もイメージして野球をしていました。

王さんと長嶋さんの二人に共通しているのは、二人とも非常にプラス思考だということです。長嶋さんは、『今日打てなければ、明日必ず打てる』とのプラス思考で、それを実現させた人です。長嶋さんの『メイクミラクル』という言葉もそのプラス思考が原点となっており、実際にそのプラス思考がチーム全体の雰囲気を向上させ、優勝と言う結果に導いたのです。

仮設住宅にお住まいの皆様も未だ苦難の状況にあることと思いますが、王さんと長嶋さんに共通しているプラス思考をもって現状を乗り越えて欲しいと思います。」
会場に集った被災者の方々からは笑いや時には感動の拍手が起こり充実した雰囲気の中、無事に交流会が終了しました。

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 北別府さんの国連の友APモデレーターとしての被災地訪問は、今回で3回目となります。東日本大震災の発生から、3年近くを経た現在、既に復興されているのではと考えられている方も多く、北別府さんは「風化してはいけない」という思いで、再びこの被災地を訪ねて頂きました。

  

被災地を視察後、大船渡市立大船渡北小学校(校庭敷地内)に設置されている仮設住宅で住民の方々との交流プログラムを行いました。

 北別府さんは現役時代に数々の記録と賞を受賞し引退までの19年間、スランプを経験されなかったようにも見られますが、その裏には高校時代1日往復4時間かけ、自転車で上り坂をあがりながら通学し足腰が鍛え上げられた事や、プロ2年目に「投げても、投げても、勝てなかった」という時に感じた苦悩を乗り越え3年目から11年連続二けた勝利投手となったのには日々の地道な努力や、苦悩の中から成長が生まれるという話しをして頂きました。

交流会を終え「国連の友復興支援活動 ウッドデッキ&ルーフプログラム」の視察に向かいました。北別府さんは仮設住宅にお邪魔した際、その窮屈な住環境を直接感じていました。

この活動は窮屈で物干し台もない仮設住宅において、ウッドデッキを設置することにより、少しでも住環境の改善を目的とし元大工の菅野棟梁(ご自身も被災者であり現在も仮設住宅で生活されています)の指導の下、全国各地から来た国連の友ボランティアによって設置作業が行われているものです。
 そしてこの日、菅野棟梁より「これで陸前高田市の全ての仮設住宅で設置が完了しました」と発表され、ここに集う全てのスタッフが一体となって歓喜し合いました。





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上記和訳文は、国連の友NY本部を通じ提出された各国連関連機関
及び国連NGOへの報告書(英語原文)より抜粋しています。

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